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子どもの命軽視のクルマ優先社会から命の尊厳を守る社会に変える方法

 技術、工学の目的は人の暮らしに役立つ道具を作ることです。
 技術は人の暮らしのためにあり、道具が人の暮らしに役立てば技術を利用した甲斐がありますが、道具が人の命を奪うなら技術を利用する意味はありません。

 毎年とてつもない人数の子どもたちが交通犯罪の被害にあい、命を奪われたり、植物状態にされたりしています。
 子どもの人命軽視のクルマ優先社会から命の尊厳を守る社会に変える方法を考えてみます。

はじめに 子どもたちが元気に暮らせる社会にしたいという点では多くの人が一致している

 私たちの周りでは、常に子どもたちの命が脅かされ、そして毎日子どもたちの命や身体の自由が交通犯罪によって奪われるニュースが伝えられています。

 子どもたちが暮らしやすい社会を作る作業はなかなかうまく進みませんが、自分の子どもや隣近所の子どもたちが元気に暮らせる社会にしたいという点では誰でも思いが一致しているでしょう。

 意見や考え方は人によって様々ですが、「子どもらが楽しく暮らせる社会にしたい」というような一致点を確認しながら、日本国の主権者の私たちは努力してまいりましょう。

「交通事故」は人権問題、命の尊厳の問題

 「交通事故」はとてつもない数で発生しているため、日常茶飯事として軽く考えられがちです。
 ちょっとした運の問題、マナーの問題、という程度に扱う雰囲気があります。

 ところが、本質を見ると「交通事故」の問題は深刻な人権問題、命の尊厳の問題であることが分かります。
 ウェブサイト「交通死『遺された親』の叫び」では、人命軽視の麻痺した「クルマ優先社会」について以下のように述べています。

現在の交通事犯被害は「日常化された大虐殺」

引用元:【報告】「命の大切さを学ぶ教室」での講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」のレジュメ・資料より – 交通死「遺された親」の叫び

時間的空間的に分散して発生することによる感覚麻痺(まひ)やモータリゼーションに依存した消費社会によって形成された人命軽視の麻痺した「クルマ優先社会」

×「事故だから仕方ない」
×「被害者は(加害者も)運が悪かった」
×「誰もが加害者になりうる過失犯だから罪は軽く」
×「お金で賠償すれば済む」

引用元:【報告】「命の大切さを学ぶ教室」での講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」のレジュメ・資料より – 交通死「遺された親」の叫び

「交通事故」被害にあう子どもたちはどうなるか

 子どもたちは当然ながらクルマの運転をしないので、歩いたり自転車に乗ったりしています。

 そのような状況で一方的に突然クルマに轢かれます。
 何の落ち度もなく日常生活を送っていただけで突然命を奪われたり寝たきりにさせられたりするということで、「通り魔殺人」的被害、と表現されることもあります。

 もし重傷を負いつつも命は助かった場合でも重い後遺症が残るケースも多いです。

「交通事故」は交通犯罪

 「交通事故」は法を遵守していて起きたケースは少ないです。

 道路では20キロ以上速度超過の違法走行が常態化しており、スマホを操作しながらの運転、前方不注意の運転、横断歩道で停止しない、右左折時に徐行しない、などの違法走行も常態化しています。

 そういった状況で歩行中の子どもたちは命を奪われます。

 こういった状況は子どもたちの命の軽視であり、「交通事故」ではなく“未必の故意”による“交通犯罪”と捉えるべきである、という主張もなされています。

 JRの列車の運転士がスマホを見ながら運転していら大変危険で犯罪的だと誰でも感じるでしょう。
 自動車も、スマホを見ながら運転すれば周囲を歩いている見ず知らずの子どもたちを殺傷することになるので、危険さは列車の運転士の場合と何も変わらないということに私たちは気づく必要があります。

 ウェブサイト「交通死『遺された親』の叫び」では、以下のように述べています。

歩行者や自転車の被害は「通り魔殺人」的被害であり、「事故」(アクシデント:思いがけない、偶然の事)ではなく「交通犯罪」

長女は、公道で、何のいわれもない人に、何の過失もないのに、一方的に命まで奪われた。

→ クルマは実際に多くの人を殺傷しており、凶器ともなる危険なもの。
 そのことを分かって免許を得てハンドルを握るのであるから、危険な暴走行為や「安全確認違反」などは「未必の故意」(みひつのこい)による犯罪。

引用元:【報告】「命の大切さを学ぶ教室」での講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」のレジュメ・資料より – 交通死「遺された親」の叫び

 大分合同新聞の記事で被害者学の専門家の諸沢英道氏が以下のように述べていました。

─全国で年間3千人近くが事故で亡くなっている。事故を「交通犯罪」と表現しているが、その理由は
 「事故の多くは、偶然に起こるものではない。漫然とハンドルを握るなど明らかな原因が見受けられる。運転は、そもそも命を奪う可能性がある危険な行為。ドライバーは高度な注意義務が課されている。それを怠って引き起こした事故は、犯罪と呼ぶべきだろう」

引用元:大分合同新聞 2023年5月11日付 特集「問う時速194km交通死亡事故」あやふやな法の運用④ 刑罰「結果問うべき」 法は被害者に軸足置いて

参考リンク

 以下のページで大分合同新聞2023年5月11日付の記事が紹介されています。

大分合同新聞が、特集「時速194キロ 交通死亡事故」の中で、当会の刑法(自動車運転処罰法)改正への願いと取り組みを報じました | 北海道交通事故被害者の会
地元紙「大分合同新聞」は、数度にわたる特集記事の中で、当北海道の会のこれまでの闘いと願いを取り上げてくれましたので、以下、特集記事の日付と見出しを一覧にします。 太字の記事が特に当会に関連するものです。とりわけ、2023年5月の特集記事では、焦眉の課題である刑法改正問題がテーマとなっており貴重です。

犯罪被害者の96%は道路交通の死傷者

 日本の2009年度のデータでは、生命・身体に被害を受けた犯罪の被害者数は95万人弱で、そのうちおよそ96%は道路交通の死傷だということです。

クルマ優先社会の本質に気付く方法

 クルマ優先社会の本質を理屈で説明されても、なかなか気持ちでは理解できないかもしれません。
 私たちは子どもの頃からクルマ優先社会に囲まれて生きてきたからです。

被害者や遺族の立場で考えると理解しやすい

 交通犯罪の被害者や遺族の立場で考えてみると車社会の本質が理解しやすいです。

本から学ぶ

 被害者の立場で考えるために、被害者の立場から書かれた書籍は参考になります。

 まずは岩波ブックレット「クルマ社会と子どもたち」を読むことをおすすめします。
 この1冊を読むだけで、クルマ社会の問題の本質が分かります。
 ページ数も少なく文字も大きめであるため、通勤・通学中などに読むとすぐ読み終えることができます。

 ブックオフなどの古本屋やネット通販サイトなどで現在も古本で簡単に手に入ります。

クルマ社会と子どもたち (岩波ブックレット NO. 470)

年間子ども500人が亡くなり,7万人が負傷する交通事故大国.日本社会のその歪みを正すために,どんな視点が求められているか.昔遊び場であった道という空間が激変した意味をたどり,児童の認識能力を過大評価した「交通安全教育」万能論を批判し,社会的弱者の生活空間において交通量を制御する交通環境改善の提言を行う.

 他にも参考になる本が多数あります。

交通死: 命はあがなえるか (岩波新書 新赤版 518)

“私たちはいつの間にか交通事故で毎年1万人以上の生命が失われるという現実を当たり前と感じるようになっている.しかし機械的な事故の処理,「生命の値段」の決めかたに異を唱えるのは非常識なのだろうか.交通事故で最愛の娘を失った著者が,事故当夜から刑事裁判,賠償交渉,民事訴訟に至る「人間としての死」を取り戻すための闘いを克明に綴る.”

自動車の社会的費用・再考

“クルマ社会の負の側面を指摘し警鐘を鳴らしたのは宇沢弘文の『自動車の社会的費用』(1974年)であった。宇沢は、自動車の所有者・使用者が負担すべき費用を負担せず、外部に転嫁していることが無秩序な自動車依存が拡大する理由であるとして、その額は自動車1 台あたり年額で約200万円に及ぶことを示した。しかしその後も自動車と道路の増加は止まらなかった。その行き着く先として80歳を過ぎても自動車を運転しなければ日常生活も困難となるクルマ社会が形成された。
宇沢の論考から半世紀が経過したいま、改めて宇沢ほか先人の指摘を振り返るとともに、自動車に依存した社会の転換について改めて現状を反映して考える。(2022.4)”

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

“自動車は現代機械文明の輝ける象徴である.しかし,自動車による公害の発生から,また市民の安全な歩行を守るシビル・ミニマムの立場から,その無制限な増大に対する批判が生じてきた.市民の基本的権利獲得を目指す立場から,自動車の社会的費用を具体的に算出し,その内部化の方途をさぐり,あるべき都市交通の姿を示唆する.”

市民団体などのウェブサイトで学ぶ

 クルマ社会に関する問題に取り組む市民団体のウェブサイトに行けば、会報のPDFが公開されている場合がよくあります。
 そういった会報には、交通犯罪被害者の立場からの様々な発信がされており、大変参考になります。

 会報によっては、クルマ社会をめぐる人権問題について学んだ中学生、高校生達の感想文が掲載されている号もあります。
 そういった感想文には大人が学ぶべき視点も多いです。

クルマ社会の問題に取り組む市民団体等のウェブサイト

 ぜひ以下のウェブサイトを訪問し、会報やその他の資料を閲覧して学びましょう。

スローライフ交通教育の会
生命尊重のくらし方と結合した交通社会と交通教育の創造を 本会は「持続可能な社会に向けて、生命・環境・エネルギーの各面に配慮した交通体系の追求と、これを保障し得る人権の尊重、ならびに生活空間の形成に寄与する学校教育の振興と主体的市民の形成」(会則第2条)を目的に研究と実践を進めます。
北海道交通事故被害者の会
悲惨な交通事故で最愛の家族を失った遺族や、 体や心に深い傷を負わされた北海道の被害者でつくる会です。交通犯罪は、生きる権利を一方的に奪う重大犯罪です。私たちは、被害者同士が支え合い、交通犯罪や事故が軽く扱われる不条理を正し、命の尊厳が護られる社会、交通死傷被害ゼロの社会を願い活動を続けます。ご理解とご支援を切にお願い致します。
持続可能な地域交通を考える会 (SLTc)
自動車がもたらす様々な公害や気候変動(地球温暖化)などの環境問題を鑑み、クルマに頼らず持続可能な地域交通の利用を進める諸活動を行っています。(神奈川県川崎市)
命と安全を守る、歩車分離信号普及全国連絡会
車先進国イギリスでは全ての交差点に人と車が交錯しない「歩車分離信号」を採用しています。わが国のように、人も車も青信号で交差させる交差点では歩行者を巻き込む右左折事故が当たり前のように発生するため、大きな社会問題となっています。日本人でも人命優先、人と車を交錯させない安全性の高い歩車分離信号の交差点システムでありたいものです。親に言われ、先生に指導され、行政に従って渡る青信号の危険! この交差点被害をなくすため、私たちはなにをすればよいのでしょうか。

講演会等に参加して学ぶ

 また、参加自由の講演会なども各地で開催されていますので、そういった会に参加してみるのも役立ちます。

参考リンク

 以下のウェブサイト等で講演会などをチェックしてみましょう。

交通死「遺された親」の叫び
娘の犠牲を無にせず、人命軽視の麻痺した「クルマ優先社会」を問い直し、交通死傷被害を生まない社会を創るために、心の中の娘とともに考え、行動し、発信し続けます キーワードは、「命の尊厳」「交通死傷ゼロ」「被
北海道交通事故被害者の会
悲惨な交通事故で最愛の家族を失った遺族や、 体や心に深い傷を負わされた北海道の被害者でつくる会です。交通犯罪は、生きる権利を一方的に奪う重大犯罪です。私たちは、被害者同士が支え合い、交通犯罪や事故が軽く扱われる不条理を正し、命の尊厳が護られる社会、交通死傷被害ゼロの社会を願い活動を続けます。ご理解とご支援を切にお願い致します。
持続可能な地域交通を考える会 (SLTc)
自動車がもたらす様々な公害や気候変動(地球温暖化)などの環境問題を鑑み、クルマに頼らず持続可能な地域交通の利用を進める諸活動を行っています。(神奈川県川崎市)
命と安全を守る、歩車分離信号普及全国連絡会
車先進国イギリスでは全ての交差点に人と車が交錯しない「歩車分離信号」を採用しています。わが国のように、人も車も青信号で交差させる交差点では歩行者を巻き込む右左折事故が当たり前のように発生するため、大きな社会問題となっています。日本人でも人命優先、人と車を交錯させない安全性の高い歩車分離信号の交差点システムでありたいものです。親に言われ、先生に指導され、行政に従って渡る青信号の危険! この交差点被害をなくすため、私たちはなにをすればよいのでしょうか。

私がクルマ優先社会の本質に気付いたきっかけは大学の授業

 当ブログ運営者の私がクルマ優先社会の本質に気付いたきっかけは、大学で受講していた憲法の授業です。

 担当の先生が、話題の一つとしてクルマ社会の問題を取り上げ、人権問題としての側面から説明していました。
 それを聞いて、私は本質に気付くことができました。

 大学の中に一人くらいはクルマ社会の本質を理解していて授業でも多少話したりする先生がいると思うので、大学生の人ならそういった先生の授業を探して選択するのも良いでしょう。

子どもたちの生命が尊重される社会にする方法

子どもに「交通事故」・交通事犯の責任転嫁をしない

 よく、交通安全教室などで子どもたちに車を避けることを教えます。

 車は急に止まれないので、横断歩道であれそれ以外の場所であれ、徹底的に車がいないことを確認してから進むように、といった具合です。

 ところが、運転免許制度、道路や街の構造、法律などを含めたクルマというものの本質の問題を考えず、またスピード違反、スマホを操作・通話しながらの運転、カーナビを見ながらの運転、カーナビでテレビを見ながらの運転、ハンドルにタブレット端末を置いてゲームをしながらの運転、歩道に駐停車する、横断歩道で停止せずに歩行者を妨害、といったクルマの運転手の違法行為の常態化はそれほど問題にせず、クルマを運転しない子どもたちへの安全教育で交通事故を防ぐという考え方は子どもたちへの責任転嫁である、という厳しい主張が以前からなされています。

 また、子どもは精神的にも肉体的にも大人とは大きく異なっており、子どもの行動を変えることで交通事故を減らすという方法は科学的に不可能であることが、各種の論文等で指摘されています
 秩序立てた詳しい説明は、実際の論文や、クルマ優先社会の問題を扱った書籍をお読み下さい。

 私たち大人は何となくの感覚から交通安全教育でお茶を濁すのではなく、科学的な視点にたって解決策を考える必要があります。

 スローライフ交通教育の会は以下のように述べています。

1 「精神論」と「技能向上」教育の「交通心理学」

 学校での交通安全教育は、「交通安全基本計画」(以下「計画」)によって位置づけられている。

 「計画」は、「安全意識の徹底」や「安全思想の高揚」など精神面ばかりを強調しており、結果として被害の責任を児童生徒に転嫁すると同時に、運転者に対しても、単なる技能向上の必要性のみを喧伝し、安全運転の普及のためにと称して、早期からの免許取得に便宜を図る方向での、クルマ依存社会への習熟・順応が必要であることを説いている。

引用元:「スローライフ交通教育」の意義と教育現場での実践事例 – スローライフ交通教育の会

 ウェブサイト「交通死『遺された親』の叫び」では次のように述べています。

現在の「交通安全教育」は、被害にあった歩行者、子ども、お年寄りにその責任が転嫁され、真の原因や社会的責任を隠し、モータリゼーション(自家用車の大衆化)を推進するイデオロギー形成に働いている。
(中略 会報1号参照)

こうした教育の指針となっているのが「交通安全教育指針」(国家公安委員会作成)である。ここでは、例えば、幼児に対して「安全に道路を通行するために必要な基本的な技能及び知識を習得させること」を目標に、「速度が速い場合、路面がぬれている場合等には制動距離が長くなることを理解させる」。さらに「死角」や「内輪差」についても「理解させましょう」というのであるから驚きである。児童期も同様で、生理的な発達段階からみて無理なことを教えようとすることで、被害にあったときの責任は社会ではなく子どもや親に向けられる。結果として危険な道路環境や運転者の問題は改善されず、交通弱者に向かって、相も変わらず「交通ルールを守ろう」と呼びかけるだけの偏った教育が続けられる。

引用元:【1】2002/11 交通教育の課題 -子どもの命と人権を守るために- – 交通死「遺された親」の叫び

参考リンク

 以下のウェブページでは、スタントマンが車にはねられる演技をするスケアード・ストレート方式の交通安全教育を厳しく批判し、こういった教育方法がいかに子どもたちに不当に責任転嫁を行っているものか、などを分かりやすく説明しています。

スケアード・ストレートの「教育」効果
単に事故を防ぐという観点であれば、スケアード・ストレートは効果的な手法かもしれない。だが、交通弱者に優しい社会の実現や、持続可能な社会の模索といったより広い文脈に位置付けた場合でも、それは最適な手法と言えるだろうか。Byron Kidd氏はこの記事で、安全の為という善意に隠れて見えにくい、意識の書き換えという陰の側面を指摘する事で、「生徒たちにウケが良い」といった安直な理由でスタント実演に頼る日本社会に疑問を投げ掛けているのである。

クルマは遊び道具ではない 体の弱い人にとっては便利な乗り物

 クルマが毎年とてつもない人数の子どもたちを死傷させ、被害者本人や遺族を絶望の淵に追いやっていることを知った私たちは、クルマについて、ファッショナブルで楽しい遊び道具、速くてかっこいいもの、といった捉え方はもうできません。

 クルマという乗り物の捉え方を変える必要があります。

 「スローライフ交通教育の会」は以下のように述べています。

クルマは速く格好良く走るものではなく、ゆっくりだが、雨風しのいで、荷物も積んで、ドアからドアへ移動できる便利なもの。子どもや高齢者、病気の人に特に必要

引用元:スローライフ交通教育 No.15 Mar.2012

参考リンク

スローライフ交通教育の会
生命尊重のくらし方と結合した交通社会と交通教育の創造を 本会は「持続可能な社会に向けて、生命・環境・エネルギーの各面に配慮した交通体系の追求と、これを保障し得る人権の尊重、ならびに生活空間の形成に寄与する学校教育の振興と主体的市民の形成」(会則第2条)を目的に研究と実践を進めます。

全ての交差点を歩車分離信号にする

 交差点の信号を従来式のものではなく「歩車分離信号」にすることで、交通犯罪被害による歩行者の交通死傷が格段に減らせることが各種の調査で明らかになっています。

 そこで、歩車分離信号の普及率を上げることが急がれています。

 以下のサイト等で歩車分離信号について、また歩車分離信号の普及率を高める取り組みについて詳しく紹介されています。

参考リンク

命と安全を守る、歩車分離信号普及全国連絡会
車先進国イギリスでは全ての交差点に人と車が交錯しない「歩車分離信号」を採用しています。わが国のように、人も車も青信号で交差させる交差点では歩行者を巻き込む右左折事故が当たり前のように発生するため、大きな社会問題となっています。日本人でも人命優先、人と車を交錯させない安全性の高い歩車分離信号の交差点システムでありたいものです。親に言われ、先生に指導され、行政に従って渡る青信号の危険! この交差点被害をなくすため、私たちはなにをすればよいのでしょうか。
命と安全を守る「歩車分離信号」とはー必要性と普及への課題ー
近年全国の信号交差点で「歩車分離式」と書かれた表示板がある歩車分離式信号をよく見かけるようになりました。  命と安全を守る「歩車分離信号」ができた経緯、必要性と普及への課題などをみてみましょう。 作成者 長谷智喜(命と安全を守る歩車分離信号
子どもの命を守る「分離信号」信号はなぜあるの
信号機は本来、交差点の交通の動きを的確にさばくために設置されているわけですが、歩行者を安全に横断させるという重要な役目を担っていることは言うまでもありません。人の命を守り、子どもたちが安心して交差点を渡ることができるシステムの導入が叫ばれています。その必然性から、私どもは非常に優れたシステムとしての「分離信号」を提案して参りました。

長谷智喜著「子どもの命を守る分離信号 信号はなぜあるの?」は古本のネット通販で探せば現在でもある程度すぐに手に入ります。

本「子どもの命を守る分離信号 信号はなぜあるの?」
歩行者おざなりの交通行政を厳しく批判し「本当の歩行者保護」を語る 「一般交差点は、人命を的にしたロシアンルーレットのよう」と言う筆者、かつてこれほど真っ向から交通行政に意義を唱え子どもたちの命の安全を求めた者がいたであろうか。

子どもの命を守る分離信号: 信号はなぜあるの?

“なぜ息子は青信号なのに、左折ダンプによって死なねばならなかったのか! その強い思いは、現在の交通信号運用のあり方に向かった。日々、調査・研究し、その結果として歩行者と車を分けて横断させる、「分離信号」という交差点のあり方にいきつく。ドキュメンタリータッチで読者を引きつける文章には、著者の、「青信号で子どもが亡くなることを防ぎたい」という思いが伝わってくる。息子の事故原因追究とさまざまな形の交差点での青信号による交通事故原因の調査・分析、分離信号設置運動と裁判の状況を綴りながら、歩行者に安全な分離信号設置を広く市民・行政に訴える。真の安全を求める姿がここにある。”

運転免許制度を厳しく

 一度事故が起きれば数百人の人が死傷する列車の運転や航空機の操縦と、実際に事故が起きて毎年何千人何万人の人を死傷させているクルマの運転とでは、同じくらい責任が重いものです。

 ところが、列車や航空機はプロが厳格な訓練を受けて免許を取得している一方、クルマの運転免許は仕事や学校の空き時間に自動車学校に通えば誰でも取得できます。

 また、自動車学校で教わった道路交通法の内容などをほとんど忘れ去っていたり、遵法意識をほとんど持っていない場合でも、たいていは30分なり1時間なりの講習をただ受けて聞いているだけで自動車運転免許が簡単に更新できてしまいます。
 運転免許更新時の講習は受講者が質問する時間すら確保されていません。講師が決まった内容を話して短時間の映像を流したりして終了です。

 クルマの運転の責任の重さに比べて免許の取得が簡単すぎるので、絶対に他人を死傷させない運転ができるだけの知識と技能を身に付けてはじめて免許を取得できるようにする必要があるでしょう。

道路はクルマだけでなく、歩行者・自転車のためにある

 現在の道路はほとんどクルマが走ることだけを考えられています。

 歩道は車道の端に一応設けられていたり、そもそも設けられていなかったり、歩道の真ん中に電信柱が立っていて車椅子の人は通行できなかったり、クルマが駐車して歩道をふさいでいて車椅子の人が通行できなかったりします。

 また、横断歩道がなく地下歩道か歩道橋しかない交差点があり、車椅子の人や足の弱っている年配の人などは渡れなかったりします。

 これでは弱い立場の人が楽しく暮らすことができないので、歩行者優先の考え方の町を作っていく必要があるでしょう。

参考リンク

持続可能な地域交通を考える会 (SLTc)
自動車がもたらす様々な公害や気候変動(地球温暖化)などの環境問題を鑑み、クルマに頼らず持続可能な地域交通の利用を進める諸活動を行っています。(神奈川県川崎市)

特に生活道路では歩行者優先

 特に、幅の広い幹線道路ではなく住宅地などの生活道路は歩行者優先を徹底する必要があります。

イメージ

イメージ

 ただ歩行者優先といっても、近道をしたいクルマが通行するので、物理的に歩行者優先にする方法もいろいろ考えられており、他の諸国では実践されていたりもします。

 例えば道路にコブを作ったり、横断歩道を歩道と同じ高さで作って事実上のコブにしたり、道路を蛇行させたり、植木を置いてクルマが蛇行せざるをえなくしたり、といった方法が、町は人のためにあると気付いた自治体では考えられたり実践されたりしています。

歩行者優先の道路の具体例 ボンネルフ

 オランダ、デンマークなどで実現している歩行者優先の道路にボンネルフというものがあります。
 ボンネルフの基本的理念は以下のようなものです。

  1. 優先権を自動車に与えない
  2. 道路で遊ぶことを禁止しない
  3. 歩道に駐車させない
  4. 高速で走れない(時速30km以下)

 ボンネルフは、単に規則を作るだけでなく、道路にハンプと呼ばれるコブを作ったり、道を狭くしたり、プランターを配置したり、ボラードと呼ばれる杭を設けるといった物理的な方法で車がスピードを出せないようにしてあります。
 おかげで子どもたちは家の前の道路で安全に遊べます。

 ボンネルフに似たものとしてゾーン30、イギリスのホームゾーン、などもあります。

 以下はボンネルフの様子を紹介した映像です。子どもたちは家の近くの道路で遊んでおり、大人どうしの交流も盛んです。

参考リンク

「車がなければ社会は成り立たない、交通事故はあって当たり前」というような思考停止に陥らないようにする

 人によっては、以下のように思ってしまい、思考停止に陥ってしまうかもしれません。

 「現在の社会は自動車輸送があって成り立っている、
 車がなければ人の輸送も物流も止まって、あなたも私も生きていけなくなる、
 事故はあっても仕方がない」

 私たちはこのような思考停止に陥らないように、日本や世界の他の地域を参考にするようにしましょう。

 日本国内でも、歩行者優先の進んだ取り組みをしている自治体もあり、自分の住んでいる地域を変える手本になります。
 日本国外なら、歩行者優先の進んだ取り組みをしている国や自治体などがたくさんあり、日本や自分の住む地域を変える手本になります。

 そのように、自分が住んでいる地域だけを見ると現状で仕方ないと思ってしまうかもしれませんが、世界全体を見ると進んだ取り組みをして問題を解決している事例がたいてい見つかります。

 思考停止に陥りそうになったら、日本か世界のどこかに手本があるはずだと考えて探すと良いでしょう。

世界各地で取り組まれている「ビジョン・ゼロ」

 現在、世界各地でビジョン・ゼロという考え方に基づいた取り組みが進んでいます。

 ビジョン・ゼロは、移動や物流などに自動車は必要なので事故でいくらか人が死傷するのはしかたない、などという考えは許容できないものであり、人命はかけがいのないものだから交通死傷はゼロにしなければならない、というような思想です。

 実際、ノルウェーでは2019年に子ども(16歳未満)の交通事故死がゼロだったということで、交通死傷ゼロの実現に向けて進んでいます。

 私たちもこういった進んだ例を参考にして交通死傷ゼロを実現するべく具体的に作業を進めましょう。

参考リンク

KENTOのビジョン | NPO法人 KENTO
NPO法人KENTOは交通事故死者・重傷者ゼロを目指す『ビジョン・ゼロ』を提案します。「交通事故がゼロの社会なんて実現できっこない」そんな固定観念にとらわれない様々な取り組みが始まっています。すでに日本をはじめとする多くの先進国で、究極に安全な交通環境を目指し、心理学やハイテクを用いた様々な取り組みがなされています。スウェーデンでは国を挙げて交通事故死者・重傷者をゼロを目指す「Vision Zero」運動が推進されています。

その他子どもたちの人権、生命を尊重する社会に変えていく方法はいろいろある

 その他、朝登校していった小学生がクルマに命を奪われて夕方には無言の帰宅をする、といった現在のような社会でなく、子どもたちの生命が尊重される社会を作る方法はいろいろあります。
 主権在民の社会ですので、より良い社会を作る係は私達自身です。
 子どもたちが早く安心して元気に暮らせるよう、ともにがんばりましょう。

参考になる本

クルマ社会と子どもたち (岩波ブックレット NO. 470)

年間子ども500人が亡くなり,7万人が負傷する交通事故大国.日本社会のその歪みを正すために,どんな視点が求められているか.昔遊び場であった道という空間が激変した意味をたどり,児童の認識能力を過大評価した「交通安全教育」万能論を批判し,社会的弱者の生活空間において交通量を制御する交通環境改善の提言を行う.

子どもの命を守る分離信号: 信号はなぜあるの?

“なぜ息子は青信号なのに、左折ダンプによって死なねばならなかったのか! その強い思いは、現在の交通信号運用のあり方に向かった。日々、調査・研究し、その結果として歩行者と車を分けて横断させる、「分離信号」という交差点のあり方にいきつく。ドキュメンタリータッチで読者を引きつける文章には、著者の、「青信号で子どもが亡くなることを防ぎたい」という思いが伝わってくる。息子の事故原因追究とさまざまな形の交差点での青信号による交通事故原因の調査・分析、分離信号設置運動と裁判の状況を綴りながら、歩行者に安全な分離信号設置を広く市民・行政に訴える。真の安全を求める姿がここにある。”

交通死: 命はあがなえるか (岩波新書 新赤版 518)

“私たちはいつの間にか交通事故で毎年1万人以上の生命が失われるという現実を当たり前と感じるようになっている.しかし機械的な事故の処理,「生命の値段」の決めかたに異を唱えるのは非常識なのだろうか.交通事故で最愛の娘を失った著者が,事故当夜から刑事裁判,賠償交渉,民事訴訟に至る「人間としての死」を取り戻すための闘いを克明に綴る.”

自動車の社会的費用・再考

“クルマ社会の負の側面を指摘し警鐘を鳴らしたのは宇沢弘文の『自動車の社会的費用』(1974年)であった。宇沢は、自動車の所有者・使用者が負担すべき費用を負担せず、外部に転嫁していることが無秩序な自動車依存が拡大する理由であるとして、その額は自動車1 台あたり年額で約200万円に及ぶことを示した。しかしその後も自動車と道路の増加は止まらなかった。その行き着く先として80歳を過ぎても自動車を運転しなければ日常生活も困難となるクルマ社会が形成された。
宇沢の論考から半世紀が経過したいま、改めて宇沢ほか先人の指摘を振り返るとともに、自動車に依存した社会の転換について改めて現状を反映して考える。(2022.4)”

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

“自動車は現代機械文明の輝ける象徴である.しかし,自動車による公害の発生から,また市民の安全な歩行を守るシビル・ミニマムの立場から,その無制限な増大に対する批判が生じてきた.市民の基本的権利獲得を目指す立場から,自動車の社会的費用を具体的に算出し,その内部化の方途をさぐり,あるべき都市交通の姿を示唆する.”